イエス中心〜あなたを自由にする戒め JJesus Center 〜 A New Commandment That Frees You

2019.9.22 礼拝メッセージ
私たちは、愛情を注ぐときにモデルがあるということをご存じでしょうか?
例えば、私に子供がいます。子供を叱る時、すごく愛する時、私の想像するモデルは両親です。両親から愛された愛しかたを自然にモデルにしています。
私が失敗したとき、父親からされたことを子供にしているときがあります。母親から言われたことを子供に言っていることもあります。
Point1:愛さないといけないという考えから自由にする戒め
「ですから、愛されている子供らしく、神にならう者となりなさい。また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。」(エペソ5:1~2)
愛されている子供らしくとありますが、私たちは誰に愛されているのでしょうか?
それは神様です。
人は自分に対する神の愛を体験して、初めて神の愛で人を愛することができるのです。
先ほど親の愛情がモデルと言いましたが、聖書に書かれていることは、神の愛がモデルです。そのモデルを体験して人を愛しなさいと言われているのです。
「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。
わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」
(ヨハネ13:34)

旧約聖書にもあなたの隣人を自分のように愛しなさいと書いてあります。上記のみ言葉と何が違うでしょうか?それは、わたしがあなたがたを愛したようにという言葉です。
旧約の時代は、愛さなければならない、だから頑張って愛そうとしていました。自分の力で愛そうとしたのです。でも自分中心では限界が来ます。
イエス様はそこから私たちを自由にするために来られ、私たちに愛のモデルを示されたのです。

Point2: 自分の不完全さ、肉の無力さに気づくこと
弟子のペテロの愛は、自分はイエス様のために命をも捨てるという愛でした。
しかし、イエス様の愛は、天の父なる神から愛されたという愛だったのです。
どちらの愛が最後まで全うされたでしょうか?(ヨハネ18:1~27参照)
イエス様は、最後まで私たちの罪を負って十字架にかかるのを逃げずに、そのまま苦しみの盃を飲み干す事を進んで選ばれました。一方ペテロは群衆にイエスの弟子では、と言われ、それを三度否定したのです。
Point3: 自分の無力さから気づかされる神の愛
ペテロはイエス様を三度裏切ったことをずっと悔やんでいました。
復活されたイエス様はペテロに声をかけれました。
イエス様は「私の子羊を飼いなさい。」と三度言われました。イエス様はペテロの三度の裏切りの杭を抜くために言われたのです。(ヨハネ21:1~19参照)
あなたのために命を捨てるとペテロは言っていましたが、神様がイエス様をとおして、愛しかたを示されました。ペテロは自分自身の弱さに気づたのです。
そして、今度は、「私が愛したように互いに愛し合いなさい」という愛で子羊を愛するようにペテロを変えて下さったのです。
